ピンボールは素敵なんだよマン。
もう先月末のハナシなので今更感ハンパないんですけど、漫画家のとよ田みのるセンセのこんなtweetがあったんですね。
@poo1007 やって来ましたネバーランド。ラスト日店内大盛況。並ばないとピンボールできないくらい! pic.twitter.com/X4fbBZoxAh
— とよ田みのる (@poo1007) 2016年8月28日
@poo1007 クローズしました。閉店間際照明を落としてゲームの明かりだけを見せて頂けました。最後に立ち会えて感慨深いです。ありがとうございました。 pic.twitter.com/rW531WNPAs
— とよ田みのる (@poo1007) 2016年8月28日
ウチは関西勢なのでこちらの店舗のコトはほとんど知らなかったのですが、どうやら東のピンボールの聖地的存在だったこちらの店舗が惜しまれつつも閉店しちゃったみたいですね。
昔は少し大きめのゲーセンならどこでも2~3台くらいは置かれていたピンボールですが、今やほとんど見ることもなく、キチンとメンテされてる完動品にいたっては天然記念物存在。まさしくレガシー級アイテムになっちゃいましたね~…寂しいハナシですが。
ウチはハイローラーを目指すようなガチ勢だったワケでなく、気に入った台をチマチマ楽しむ程度のライトプレイヤーだったのですが、それでもどっぷりハマっていた20代前半の頃は、ほとんど毎日1~2時間くらいはプレイして技術を磨き、友人達とスコアを競い合ったものです。ちなみに一番好きだったのは、「デコピン」と呼ばれていたデータイースト製の「スターウォーズ」。コイツはめちゃくちゃやり込んで「デスセイブ」もマスター、1コインで1時間以上遊ぶのもザラ…ってくらい遊んでました。
そんな思い出もあるので、こういったピンボールが遊べる場所が無くなっていくことにはやっぱり寂しさを感じちゃうワケなんですよ。まぁビデオゲーム、スマホゲーム全盛の今となってはプレイヤーもほとんどいないでしょうし、ゲーセンでも場所を取り定期メンテも必要なクセにインカムは振るわない…そんな機械が淘汰されていくのは仕方がないのは分かるんですけどね。でもやっぱり実機のピンボールには、なにかスポーツをしているような他のゲームでは味わえない独特の緊張感、高揚感みたいなモノがあって、それが昔みたいに気軽に味わえなくなるのは残念なコトだと思いますね。
幸い大阪には「西の聖地」とでも言うべき「ザ・シルバーボールプラネット」という日本最大級の台数を誇るピンボール専門店が心斎橋にあるので、また暇を見つけて打ちに行きたいと思ってます。このご時世…いつ遊べなくなるかワカンナイですからね。
「ピンボールの何がそんなに面白いのかワカンナイ~」って方はとりあえず、とよ田みのるセンセの傑作漫画『FLIP-FLAP』と村上春樹の小説『1973年のピンボール』の2冊を読んでみるコトをおススメします。きっとピンボールを打ってみたくなりますから。
…気付けばそろそろ1000文字になるので、最後にピンボール好きにはあまりにも有名な名文でこの駄文を締めたいと思います。では。
あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。 失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、ある者はプルーストを読み続けているかもしれない。またある者はドライブ・イン・シアターでガール・フレンドと『勇気ある追跡』を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。 そして彼らは時代を洞察する作家となり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。
しかし、ピンボール・マシンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイのランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……
まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思えてくる。
永劫性については我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。
HAVE A NICE GAME !
(1552文字)